「雪の中の彼女」  この物語は、故郷を遠く離れて見ず知らずの土地に一人暮らしていた 私の思い出話です。  故郷を遠く離れ、故郷に帰る日を夢見ながらめげそうになった私の心 を優しく暖めてくれた見ず知らずの”彼女”、三毛の美猫との思い出で す。  …彼女と最初に出会ったのは、私が大学生2年生の初秋の頃、そして、 彼女と別れたのは、その年の12月も中ばに入り、九州でも日に日に寒 さがつのって来た頃でした…  大学での授業も冬期休みが近いせいもあり、友人達は皆”心ここにあ らず”の様でした。  私も、東京への帰省を楽しみに炬燵で暖を取りながら、下宿でレポー トを作成していました。  「うーーーっ、今夜はやけに冷えるなぁ…」  独り言を言う息も微かに白くなるほどの寒さです。  よく人に、  「九州は、暖かくて過ごし易かったでしょう?」 とよく聞かれるのですが、九州も日本海沿いになると冬は12月頃には 雪が舞い、山では路面が凍結する程寒くなるのです。  余りに寒くなってきたので、私は身体を内側から暖め、ついでに眠け 覚ましを兼ねるために珈琲を入れるべくお湯を沸かしていたところ…  「に゛ゃーーーーー」  と、下宿の玄関からものすごい声が…  (ほーら、おいでなすった!)  と、私は思っていそいそと下宿の玄関に行きました。  そこには、泥だらけの”彼女”がいました。  ”彼女”は、この年の秋、台風のさなかに出合い、以来私の下宿にと きたま現れるのです…きまって泥だらけの姿で…”彼女”とは…三毛の 美猫で、野良なのか飼われているのか判りませんが、ただ、その毛並み の美しさと言い、気品の高さと言い、とても野良猫の様には見えません でした。  ”彼女”は私の下宿におとづれる時は、何時も決まって玄関に座り、 「に゛ゃーーーーー」と、ものすごい声で鳴きます。普段は、控えめに 可愛い声で鳴く癖に、この時ばかりは  (よくこんな鳴き声が出せるな…?) と、思うくらいすごい声を出します。  不思議な事に”彼女”は、私以外には人になつかず、私以外の下宿の 人が近づくと逃げてしまいます。  「よしよし、よくきた」  と言って、私はいつものように”彼女”を持ち上げると部屋に入り、 部屋の流しに入れました。  なにせ、”彼女”は私の下宿に訪ねてくるときは泥だらけの格好で来 るので、抱き上げる事が出来ませんので…  洗面器にさっき珈琲を飲もうと思って沸かしたお湯を入れ、水で十分 緩くして”彼女”の身体を洗ってあげます。  …私の経験から言って、”彼女”は、変わった猫です…  下宿の猫を風呂場に連れて行って、洗ってあげると嫌がって暴れます が、”彼女”はおとなしく、返って気持ちよさそうにしています。  きれいになった”彼女”をタオルにくるみ、私は彼女を抱いたまま炬 燵に潜り込みました…  「ほーれ、きれいになった、気持ち良かろうが…」  私のそんな言葉に対して、”彼女”は、目を細めて  「にーーー」 と、一言。  普段なら、ドライヤーを当てるところですが、今日は炬燵の中に”彼 女”を放り込んで、私は、再び珈琲を飲むべく、お湯を沸かし始めまし た… * * * * * * * * *  ようやく、珈琲にありつけた私は、身体が温まったところで、再びレ ポートを書き始めました…レポートを書き初めて暫くすると…  「にゃーーー」 と、”彼女”がごそごそと炬燵から這い出してきました。  私は、兼ねてから用意していたいりこ(当時私は、レポートを書きな がら、いりこ(煮干)や鯣,煎餅等をかじっている事がしばしばありま した…)を小皿に乗せて”彼女”に出しました。  ”彼女”がいりこをかじっている最中に、私は冷蔵庫から牛乳を出し、 軽く暖めて”彼女”にあげました。  やがて、腹の満ちた”彼女”は表情を浮かべ、レポートを書いている 私の膝の上に乗ると、丸くなりました。  私はいたずら半分に、彼女を抱き上げるとトレーナーのジャンバーの 中に入れました。これは私は下宿の猫に対してもよくやる事で、いわば、 ”生きた懐炉”とでもいいましょうか…  猫をこうすると、大抵は嫌がらずに私の懐で丸くなってしまいには寝 てしまいます。  ”彼女”も例外ではなく、過去に何回かやっていますが、嫌がらずに 私の懐で静かな寝息を立ててしまいます。  ”彼女”をレポートの邪魔にならないように、静かにさせてから私は、 レポートの作成を続けました…  レポートがようやく終わったところで、下宿の猫が廊下で鳴いている のに気がつきました。どうやら、他の人の部屋を追い出されたようです。  その鳴き声を聞いてか、彼女はごそごそと私の懐から這い出すと、大 きな伸びをして、ドアの方に行きました。そして、ドアをいつもより激 しく引っかき、私に早くドアを開けろと催促するのです。  私がドアを開けると、夜の冷気と共に下宿の猫が入ってきました。  …下宿の猫は、これも三毛でしたが、まだ小猫でした…  抱き上げてみると、可愛そうに、寒さで震えていました。  早速、炬燵の中に放り込むと彼女も一緒に炬燵の中に入って行きまし た。  猫に炬燵を占領された私は、布団を敷きはじめました。  布団を敷き終わって炬燵の中を覗くと、”彼女”は、お姉さんぶって 下宿の小猫の毛づくろいをしてやっていました…小猫も小猫で、すっか り”彼女”に甘えきっていました…  私は、その光景に暖かな物を感じ、暫くじっと見ていました。  その晩、私は二匹の猫に囲まれて寝る事になりました。 * * * * * * * * *  …翌朝、私は”彼女”に起こされました…  眠い目をこすりながらも、私は一言  「いくのか?」  しかし、”彼女”は、私の言葉に相変わらず振り向かず、ドアの方に 行きました。そして、いつものようにドアを軽く引っかき、私にドアを 開けるように催促するのです。  玄関を開けると、外には雪が降り出していました…私は暫く”彼女” を見ていました…なぜなら”彼女”は、雨が振っているときは、私の部 屋に引き返して雨が止むのを待つからです。  しかし、その日は”彼女”は意を決したように小雪の舞散る中に走り だしたのです。  私が”彼女”を追って玄関を出ると、10メートル程先に”彼女”が いて、振り返って私の方をじっと見ていました…暫く私の姿を見ていた ”彼女”は、ゆっくりと私に背を向けると素早く駆け出して行きました…  私は、”彼女”が見えなくなるまで雪の中で呆然と立っていました… これが”彼女”を見た最後だったとは…  この年私は、下宿にクリスマスまでいましたが、”彼女”は私の下宿 をおとづれる事はありませんでした。  その翌年、進級試験も無事終了し、私は晴れて東京に返る事が出来ま した。  下宿を去る日まで、私はもう一度”彼女”に会いたいと思いましたが、 私の気持ちと裏腹に、”彼女”は私の前に二度と現れませんでした。  私は思いたい、彼女はやはり飼い猫であってあれから無事に飼い主の 元に帰ったのだと… 藤次郎正秀